2013年1月17日木曜日

1.17の決意

神戸の震災以降ずっとふさぎ込んできた。

震災の話は避け、
TVに震災の映像が映ったらチャンネルを変えた。
ましてや
1.17の集いになどいく気にもなれなかった。

家族の間でも姉の思い出を
語れど震災の話しはしなかった。

あの日を境に日常の当たり前が当たり前でなくなった。

震災の翌年から
1月17日の朝は東灘区の家があった場所に家族みんなで手を合わせにいった。

この場所に別の家が建つまで
いろんな気持ちを噛み締めながら手を合わせにいき続けた。

他のどこでもなく
姉はここで死んだんだと
お墓にもどこにも姉はいない。

ただ、ただここで死んだんだと
毎年歯を喰いしばる想いで手を合わせていた。


震災の翌年のことだったか
手を合わせている僕たち家族に断りもなくシャッターをきるメディアの人間に母が怒り泣きながら掴みかかったのを今でも覚えている。

報道の義務、後に考えれば
発信する。という大事な役割なのかも知れなかったが、
そんなカメラの向け方をするメディア全般にも吐き気がした。


7人家族で兄弟の面倒見もよく
夢があり、それに努力し
誰よりも賢明に誰よりも誠実に
生きていた姉が亡くなったことで
僕だけでなく家族みんなが
姉の代わりに自分が...
などと考えていたのではないだろうか。

そこに至らずとも
なぜ姉でなければならなかったのかを自問自答し続けたはずだ。

母は戸惑う僕達にこう言った。

みんなが死ぬはずやった所を
姉が全部背負って持っていってくれたんだと
だからお姉ちゃんのぶんまで
誠実に、正直に、
一生懸命自分の人生を
全うせなかあかんのやと。

答えなどだそうにもでない中で
1番苦しかったはずの母が
そう導いてくれたから

そうして生きていこうと心に誓った。


だめだめではあったけど
懸命に生きる姿勢を
親友達とその家族は応援
してくれた。

僕のアルバイトでは足りない授業料を内緒で払ってくれたり、
貧乏過ぎてご飯もろくに食えない僕に学生の間
ご飯も寝床も与えてくれたりした。

懸命に生きる誓いは
サラリーマンをやめるまで
できないながらもできる限りで続いた。

このまま少しずつでも真っ直ぐに...


そのはずの僕は
数年後、サラリーマンをやめ、
懸命という概念から解放され
ミュージシャン気取りでひもの様な生活、そしてそんな甘え腐った日々が続くはずもなく
一転ホームレス生活。

忘れるのだ

あんなに大切なことを

僕はそんなクズだった。


転落、いや堕落した毎日

寒空の下ダンボールの上で
空を見上げながら
ふと家族のことを思った。

特に姉のことを思ったときに
身体は自然と姉のお墓に向かった。

線香とろうそく買ったら
花が買えなかった。

ボロボロの姿で手を合わせている自分を客観視している自分。

死ぬ勇気もなく
目的もなく生きている。

よく姉に顔向けできたなぁ

支えてくれたみんなの顔がよぎる
母とたてた誓いが頭を駆け巡る
吐きそうになるくらい
胸が苦しくて仕方なかった。


その夜を忘れないためにその日のうちにDear Sisterという曲を書いた。


姉や母から教わったこと
自分の人生に一生懸命であれ
ということ

家族と過ごした幸せという時間

当たり前が当たり前でないこと

二度と忘れんと誓った。


生き方を変えたら
少しずつ前向きになれた。


歌うことも前向きになった。

何より人に親切にすること
人からの親切を感じること
今だに変えせずとも感じられるようになった感謝の気持ち。

だがなかなかに受けた恩への感謝が
ないと言われおしかりを受けるまだまだ未熟者だ。


話しは
震災から15年以降頃、東遊園地の1.17の集いの中島代表にお会いする機会があった。
多くを語らずただ僕の震災以降すさんだ気持ちが前向きになり始めたことに
心から喜んでくれた方だ。

その出逢いがあった
翌年から中島さんの続けていることがどういうことなのか
知りたくなり
1.17にいく様になる。

納める場所と想っていた東遊園地が
今は風化させないという想いを
発信する場所にもなっているんだと肌で感じた。

来年から毎年来ようと決めた。
そして今まで目を背けていたことにも目を向けてみようと思った。



癌を患っていた
中島さんはその後すぐにお亡くなりになられた。
出会った頃から患っていはった
らしくそんなことは微塵も感じさせずにいた中島さんを心から
尊敬するとともに
その意志をすこしでも受け継ごうと思った。

その精神は
東北へ行ける限り歌いに生き続けていることと
東京で続ける
東日本応援イベント
「ハジメのいっぽ」
に生きている。

そして
震災から18年目の今日
改めて
15年目から続けてきた「弾き語りべ」としての活動
「作人の音がえしプロジェクト」を
バックビートや震災復興記念公園の実行委員の方々、たくさんの方々周りの力添えもあり
立ち上げたこの活動を続けていこうと思いました。

そしてそれをちゃんと今年からは発信していけるよう広報にも務めていきます。


19日はさっそく中学校に歌いにいきます!

さぁ作人がいろんな人から受けた恩をいろんな人に音楽で返す

「作人の音(おん)がえし」スタートです!


震災を風化させないために

そしてなにより

当たり前が当たり前でないという気持ちを忘れないために
僕は僕のできる範囲で続けていきます。


ここに決意を


2013年1月17日

田代 作人